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株式会社名古屋画廊
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名古屋画廊の70年

創業70年-画廊業の喜び

一、名古屋画廊は、2年前に創業70周年をお迎えになりましたが、まずは創業の経緯をお教え下さい。
 
 1912年(大正元)生まれの父は、もともと1936年(昭和11)に東京の大学を出て名古屋市役所で働いていました。絵が好きで在学中はよく展覧会など見てまわっていたといいますが、いつか自分が画廊をはじめるとは思いもよらなかったようです。
 市役所勤めをしてほどなく、結核を患い退職。死を覚悟しながら数年間、寝ているだけの毎日でした。それが運よく治るのですが、医師からは一生デスクワークはやめた方がよいと言われます。適度に身体を動かす仕事がよいとのこと。父は役所というところのもつ雰囲気があまり好きではなかったと言っておりました。夜遅くまで残業しようとしても、先輩たちから「役所はそういうところではない」と止められたりして。ただ父は、客観的に見ると「役所」や「デスクワーク」にむいていないこともなかったように思います。
 首尾よく結核が癒え、さてこれからの人生どうしたものかと思案していたところ、栄を散歩していて、本町通り西側(旧東海銀行本店西むかえ、現ホテルシルク・トゥリー名古屋の駐車場入口あたり)に建設中の3階建てビルの看板を見ると、画廊ができると書いてある。父は天啓を受けたかのような気持ちになったようです。看板を見ただけで、もう画商が自分の天職であると思ったとのこと。大阪に本店のある美交社という画廊です。ただちに大阪へ出むき、入社を懇願しました。そのとき面接をしたのが、のちフジカワ画廊をたちあげる美津島徳蔵氏です。美交社社長の実弟で画廊ナンバー2の立場でした。父の経歴や小柄で結核をへた細い身体を見て当初どうしたものかと思ったそうです。しかし、あまり熱心に入社を志望するので、幸いにも採用ということになりました。1942年(昭17)6月の名古屋美交社オープン時には名古屋支店長の肩書き。名古屋支店の男性社員が父ひとりであったためです。ほんらい年季のいる仕事にもかかわらず、入社したばかりの“素人”がいきなり「支店長」というところに、業界の若さがあったと思います。全国的に見て、それまで茶道具屋さんやフロシキ画商などはいても、画家を擁するなど“近代画商”となると、厳密に言えば東京では大正時代や明治時代までさかのぼることもできるようですが、実質的には昭和初期以降でしょう。
さて、戦中に画廊が成り立ったものかとよく聞かれますが、父によれば、戦時状況が本当に逼迫してきたのは1944年(昭19)からで、それまでは芸術分野にも何らか余裕があったそうです。「大本営発表」などで覆いかくされていた面は多分にあるでしょうが、美術の出版状況など見ても『ドラクロワの日記』が1942年(昭17)12月刊。紙など物資不足のおり、しかも芸術分野とはいえ敵性国家の画家で初版2000部。ジョン・リウォルド著『セザンヌ』が1943年(昭18)10月刊で初版3500部。興味ぶかい事実だと思います。いずれにせよ1942年(昭17)というのは、画廊がオープンできる「戦前」最後くらいの年であったでしょう。なお、終戦時(1945年)までに創業したのが画廊第一世代といってもいいと思います。名古屋美交社は3階建てで天井の高いモダンな画廊ビル。自社ビルでテナントは入れていなかったのですから、当時としてなかなかのものだったと思います。
 父の父親、すなわち私の祖父は、今のJRに勤めていました。自身は愛知一中を出ていくつかの駅長をつとめ、息子は東京の大学を出て就職難の時代にあっても名古屋市役所の職員に。中山家はめでたしめでたしというはずだったのに、いくら結核から命びろいしたとはいえ、息子が「画廊」などという事情のよくわからない業界に行くと言い張るので、ひどく落胆したといいます。
 その後、1945年(昭20)3月の名古屋大空襲でビルは消失し、中区不二見町の自宅を一部ギャラリーに改装して営業をつづけ、戦後1947年(昭22)に、焼け残ったビル(栄、広小路通り北側の旧安藤証券ビル、丸栄百貨店北むかえ)の3階で再開しています。しかし名古屋のあと東京にも支店を出した美交社は、美津島徳蔵氏が1945年(昭20)に美交社を去ると経営が徐々におもわしくなくなりました。やがて経営がいきづまりを見せ、父は1961年(昭36)名古屋画廊として再出発することとなります。その間ずっと美津島徳蔵氏が何かと精神的な支えとしてあり、私も20代のころ「名古屋のフジカワ画廊」たらんと思っていました。画廊の規模が大きくなっても、ビジネスに走りすぎず、よき作家・作品を見きわめ、世に出していこうとする姿勢です。美津島氏は、晩年まで銀座の多くの画廊のことを「雑貨屋みたいになって」と批判的でした。
 
二、「画廊は一代のもの」とよく言われます。画廊を継承することに関して、中山さんはどのようにお考えになっていますか? 何か、これまで悩まれたことなど、エピソードがあればお教えください。
 
 「画廊は一代のもの」。二代目画商にはきびしい言葉ですね(笑)。桜画廊の藤田八栄子氏も1993年(平成5)に亡くなられる数ヶ月前に体調不良ゆえ閉廊を宣言しておられたと聞いています。自身と同様の覚悟で画廊を継ぐ者はいないとの判断だったのでしょうか。メイン作家のひとりであった庄司達先生はそのときまだ54歳。ご自分の亡きあとのことを考える余裕はそのときあまりなかったのかもしれませんが、自らがかかえる作家たちについて、安易に引き継がれて形骸化していく画廊よりも、しっかりと覚悟のある他の画廊で発表活動をしていったほうが、作家のためだとおばちゃんは思ったでしょうね。真っ当に画廊を経営しようとすれば、継承するのはとくに現代美術の場合ことほどさように困難をきわめると思います。「画廊は一代のもの」という言葉は、美術へのかなりの志なり情熱なりがあってこその画廊だという考え、そして現実からくることでしょうね。画廊というイバラの道を、強い動機ゆえそれでも選び、なんらか実績をあげたという初代を簡単に引き継ごうなどできるわけがないということなのでしょう。二代目になって財政的に余裕ができたからといって、それでよりよい仕事をするかといえば、そうとはまったく限りませんし。
 それで私のことですか(笑)。つまらない身の上話になりますが。子どものころからあまり強い性格ではなく、長男で姉が1人いるだけですから、自分が画廊を継ぐとの意識は子どものころからもっていました。画廊経営のたいへんさは、子供ごころにも少しはわかるものでしたが。のち反抗期においてさえ、それはあまり変わりませんでした。また、画廊は遊び場でしたし、“幼児体験”からして1964年(昭39)六歳のとき画廊がそれまでの倍のスペースに拡張され、子供ごころに事業が発展する喜びをおぼえたものです。今もそのときの記憶がはっきりと残っていて、思い出しては頑張らなきゃと思ったりしています。家はせまいながらも壁じゅう絵だらけだし。父母に対して同志的な感覚もありましたしね。商売をやっている家の子どもはみな同じかもしれないですが、生活必需品の類ではない商品であることがわが家の場合ポイントだったかもしれません。絵は簡単には売れてくれないという意味です。そんな現実を見てしまうと、いろいろ複雑な気持ちになってしまうこともよくありました。それにしても、自分がいい年になるころには、絵の好きでよくわかるひとがいっぱい増えて、よい絵なら必ずや売れるようになると思ったら、少しもそうはならなくて(笑)。
さて、大学も父と同じところへと思うとともに、一浪後の受験が近づくと文学部(美術史科)へ行きたいと思うようになりました。ところが不合格。忘れもしない、大学に問い合わせると、総合点ではボーダーラインを大きく上回っていたのですが、国語が50点満点中18点で23点の足切りにあってしまったのです。二代目なのだから美術をアカデミックに学んで当然という思いは、もののみごとに打ちくだかれてしまいました。
 しかし大学入学後、大きく気をとりなおすことになります。父が“作家まわり”のため月に一度ほど上京してくるたび、画商見習いとして4年間よく同行していました。父が東京でアトリエ訪問するのは、多くは明治生まれの懇意にして頂いていた画家たちです。森芳雄、糸園和三郎、中谷泰、牛島憲之ら。アトリエで、作家と父とのやりとりを黙ってそばで聞いているわけですが、何ものにも変えがたい貴重な経験でした。画商修業を越えた何かがあったように思います。大家はやはり人間がちがう。頂戴する素晴しい作品もさることながら、描いた人間と高度に一致している。だから芸術なんだと思いました。口数の少ない父は、どこへ行ってももっぱら話の聞き役でしたが、森先生との芸術問答や、父よりなお寡黙な糸園先生が醸し出す人間的な魅力など、巨匠の世界におおいにあこがれることとなります。生活の問題などを乗り越えての創作はもちろん言葉や立居振舞、容貌まですべてに含蓄があり、一貫している。美術評論で言えば今泉篤男の世界です。もう大学の先生などあまり尊敬の対象にならなくなってしまいました。
 だから、こまごましたことは思っても、たいした葛藤もなく画廊を継いでいると言えば継いでしまっています(笑)。ただ、当時もうひとりの大物、坂崎乙郎先生の存在も決定的でした。学部がちがっても同じ大学の教授であられましたので、授業を勝手に聴き、研究室へもよく押しかけました。葛藤と言えば、親よりも坂崎先生に対してでしょうか。作家に対してきびしすぎるほどの見方をいつもしておられました。老成の美学などはあまり好まず、37歳で亡くなったゴッホや28歳で天逝したエゴン・シーレなどがお好きなわけです。長命するにしても、晩年まですぐれた展開をなしたゴヤやアングルを引き合いにだすなど、多くの現役作家は最後はついていけません。私どもとお付き合いのある中でも、きびしい批判にさらされていた画家が少なくありませんでした。昭和世代の画家など、かつて若いころ著作でおおいに評価され、期待されていても、10年もたてばその後の展開がない、変わることを怖がっているなどと、かなりの割合で作家評価が正反対に変わっていました。私に対しては、画廊の息子でまだ学生ということでわりあい慎重なもの言いをしてくださっていましたが、こうした点について私の拙い反論など、「そんなこと言うなら僕の話を聴いても無駄だな」と一蹴されています。こちらは生身の絵描きたちを知っているわけで。私はその意味では、私の学生時代1980年前後によくいた典型的な坂崎信者ではありませんでした。
 さて坂崎先生は、「絵がわかりたければ感覚をみがけ。感覚をみがきたければ対立概念をもて」ということをしばしばおっしゃっておられます。そこで4年生秋の就職活動シーズンを前に、私は「対立概念」をもとめて他の業界で数年間“修業”しようと思いました。いずれ社員数人の家業にもどるわけだし、仕事ばかりの毎日となる今の生活もだいたいわかっていたので。父の45歳というおそいときの子であった私を、父は卒業とともの画廊にもどしたかったのですが、坂崎信者の私はゆずれません。大企業とはどんなところかも知りたいと思い、就活解禁日の10月1日から同級生たちが面接を受けにいくのについていき、いくつか内定をもらいました。その中で画廊といちばん対立(?)しそうな業界へ。坂崎先生に、先生の言説にしたがって就職を決めましたと報告をすると、たいへん驚かれました。口があいたまま私の顔をマジマジと見るのです。坂崎先生は学生に挑発するようなことを言うわりには、まさか本当にそんなことする者がでてくるとは思わなかったようです。けっきょく企業に就職して1年半で父の病気のため画廊へもどってきたのですが、以上の話はやはり読者の参考になりませんね(笑)。
 実際、初代を越えた二代目や三代目の画商など世界に1人もいないでしょう。初代にくらべて跡継ぎがいかにだらしないかという話はいくらでもあるのに。私はその筆頭かもしれません。今後も、それこそ原理的に無理なことです。おそらく画廊の跡継ぎは、優秀とされるひとほどこの事実をして自分自身を納得させるのに葛藤をおぼえると思います。自分なりのヴィジョンをもって、あまり何もないところから画廊をたちあげ、発展させたであろう初代には、たいへんなエネルギーがあったでしょう。そんな初代に少しでも近づこうとすれば、二代目、三代目は新たに創業するくらいの気概をもたねばなりません。私も特に2000年(平12)42歳で母を継いで社長になるときは、社内をずいぶん改革しました。変えてはならない部分と変えるべき点を明確に区別し、泣いて馬謖を斬るようなこともしました。画廊の規模に関係なく、それは跡継ぎにとって必要絶対条件だと思います。そのようにしてもうまくいくとはまったく限らないくらいたいへんなことですが、自分を信じ、勇気を出して前に進むしかありません。けっして「いいひと」になろうとしてはならない。いずれにせよ、初代と張りあおうとしても、それは無理です。
 
三、80‐90年代に公立美術館が建設されていった前後での変化をお感じになっておられますか?
 
急にどうしてそんな質問なんですか(笑)。私ごときがお答えするのがふさわしいかどうか。私が画廊にもどってきたのが1983年1月(24歳)なので、それ以前との比較はあまりできません。ただ、80年代の公立美術館建設ラッシュのころ私が感じたのは、それによってそれぞれの地域の美術史が掘り起こされることや、一方で全国的にアピールできる外国作品などそれぞれの館が特色あるコレクションをめざすことによって、美術の世界が全国的な面となって社会での存在感を大きく増したことなどです。欧米の国々のように、日本も全国どこへいっても立派な美術品を鑑賞することができるようになり、それによって私たち日本人の美意識までおおいに変わっていくんだなと希望をいだきました。美術館建設ブームというと、首長が自身の任期中にとか、横並び意識などときに悪しきハコモノ行政のように言われることもあります。しかし特にあの当時、景気もよかったので当然あってしかるべきことでした。
私どもは東海地方で当時ある程度は認知度があったと思います。しかし全国的にはそれほどではありません。そこで私は1993年から1、2年かけて全国の国公立美術館へ“飛びこみ営業”をしました。その年に結婚したので、女房を勉強がてら連れていき、特に土・日曜など飛行機などで午前中にある県の美術館へ行き、昼は電車に乗って昼食をとりながらとなりの県の美術館に移動するというものです。1日に2つの県へ。女房は展示をゆっくり見て、私は購入担当者などだれか学芸員の方に面会してもらい、売り込みや御用聞きをするわけです。それ以降で新設されたのは、東海地方をのぞけば北から青森県立美術館、宇都宮美術館、うらわ美術館、東京都現代美術館、金沢21世紀美術館、島根県立美術館、広島県立美術館、愛媛県立美術館、長崎県美術館、沖縄県立博物館・美術館など、とくに県立は最後の一群です。私どもの創業50周年記念展のカタログなどお渡しし、ご理解を頂くようにしました。お蔭様でそれから20年あまりで全国の国公立50館以上に日本近代洋画から外国作家まで数多くの作品を納入させて頂きました。それで、私どもは多くの美術館の館長さんたちや学芸員の皆さんに仕事を通じてお育て頂いているとの思いがきわめて強くあります。
そういったわけで1990年秋のバブル崩壊後、全国の美術館が運営予算削減などにより徐々に何かとやりくりしていく姿をかなり見てきました。うちはもっとたいへんなわけですが(笑)。この間、日本という国は、農耕民族だからなのか(?)本当に現場の頑張りによって成りたっているんだなとよく思いました。企画の予算が少なくされてもどの館もなんとかして展覧会の質をさげないのは、感動的ですらあります。工夫してコレクションを新たな切り口で見せたり、他館の特色あるコレクションを一括して展覧会としたり。その点、岐阜県美術館のルドン・コレクションは全国一の活躍ぶりではないでしょうか。それを行政のほうでは、予算を削減してもちゃんとできるじゃないか、としばしば見てしまっているようですね。
購入予算しかり。作品購入できにくくなっているぶん、寄贈として収蔵するケースが多くなっていますよね。これも行政側からすると、天下のわが館だから寄贈したい作家や遺族が多いんだろうと思うようですが、実際はこの学芸員さんたちなら作品を大事にし、活用してくれる、学芸員イコールその美術館と思ってのことが多いようです。他にも、出張予算の取れないなか、海外で活躍した作家の調査に休暇をとって自費で海外出張したりする学芸員の方なども。
ところで、金沢21世紀美術館のオープンは衝撃的でした。コレクションもさることながら、いつ行っても“満員御礼”みたいな。ウイークデーの午前も午後も小・中学生たちであふれています。やはり学校から生徒さんたちを連れてきてもらわないと、と思わずにはいられません。
 

四、大きな質問にはなりますが、「画廊の社会的存在意義」はどのようにお考えですか?

 

画廊は、若手作家なり、埋れた物故作家なり、要するに評価がまだあまりなされていない作家・作品を時代に先がけながら展覧会などを通じて美術ファンや美術館へ橋わたしをしていくことが、まずもって考えられる大きな役割でしょうか。そこには、個々の画廊の個性的なヴィジョンや経営理念など強く関係するでしょうね。画廊は美術品の円滑な流通とかばかりに甘んずるわけにはいきません。もちろんそういったベーシックな面が成り立たねば、ふつう画廊はたちいきませんが。ギャラリストはおおきなロマンをもっているはずなので、他の業種にもまして、そういったことばかりで終わらないようにあるべきです。ゴッホと弟の画商テオとの問題提起はこれからも生きつづけるでしょう。社会的といえば、日々の仕事の中では、直接的な美術品売買の他にも建築やインテリアに関わるアート・コーディネートなどソフトや、修復や額装などハード両面で美術全般の身近なプロとしていわば前線にたつ役割があります。コレクターたちや美術館だけではありません。官庁や企業の美術品管理担当者らからのいろいろな問い合わせにもお応えしています。
「画廊の社会的存在意義」といえば、私どもは老舗である以上できれば“社会貢献”までもっていければと、所有する作品それぞれ30点くらいで「移動美術展」を2009年から県内のさまざまな文化施設などで年7、8回おこなっております。戦中に父が病院や軍需工場の空き部屋などを利用して行なっていた「巡回慰問美術展」にならったものです。娯楽のあまりないきびしい時代、どこで開催しても大好評を博しました。子供のころからその様子を父から聞いており、「巡回」ということにテレビの「ひょっこりひょうたん島」が重なって、「いつか自分も」と楽しい夢を描いたものです。それから数十年、リーマンショックを機に、今こそ私どもなりに美術の本来もつ力を発揮させたい、絵で世の中を明るくしたい、と思って始めました。郷土作家による作品なら、こんにち私どもには数百点もありますから主にそれを活用しています。
この試みは、おおげさに言えば美術の新たな楽しみ方の提案でもあります。私どもは郷土作家の作品をときおり県内の各美術館に購入なり作家や遺族の寄贈なりで納めることがありますが、私どものコレクションとは、多くはその際に美術館側から選ばれなかった作品の中から私どもが頒けて頂いたものです。学芸員の方々の作品選択の眼はどこの館も確かなもので、いつもたいへん勉強させて頂いております。しかし公の美術館ということで、一作家の収蔵点数もかぎられるなか、どうしても代表的な大作や典型的な作風、得意とされているモチーフのものを尊重する傾向があります。ところが、すぐれた作家はしばしばそれ以外でも才能をじゅうぶんに発揮します。大作でなくとも、あるいはモデルさんでなく家族、大自然でなくアトリエの庭先などささやかな自然、そういった場合にも絵心があふれることがめずらしくありません。そんな作品群を、地域の身近な文化施設で無料で見ていただく。日曜日など会場で絵を見るひとたちの姿を見ていると、美術館とも画廊ともちがう、それはそれで絵も見るひとも片ひじ張らず、何らか親しみを感じながら楽しんでもらっているのがわかります。アンケートの結果もいつも上々。こちらの企図がよく通じているようです。交通の便がわるくても、1日100名の来場者をむかえる展覧会もよくあるんですよ。各会場の主催者は、多くは教育委員会なのですが、当初はみな地味な郷土作家展に反響があるだろうかと半信半疑でした。
 そうした発想の延長線上で、私どもには数年後に美術館をたてる計画もあります。もう10年以上も前からあと5年で、あと3年でと言っているのが、“諸般の事情”により遅れてばかりでお恥かしいのですが(笑)。東海道沿線の真ん中よりも東京寄りでオープンできればと思っています。そのための作品は、郷土作家とは別です。同じような発想によるものですが。身近でありながら見落されがちな価値にもっと目をむけよう、と。私ども70余年の歴史をかけて、コレクションを軸に私たち日本人の美術に対するいっそうの楽しみ方を美術館活動を通じて創造していきたいと思っています。さらにその美術館を拠点に、たとえば「現代の絵画展」や絵画コンクール、あるいはビエンナーレと称する現代美術展など、できれば地方の文化施設やデパートにも巡回させながら、いわば「移動美術展」の全国版のようにして毎年いく種類も行なうつもりです。加えて、多くの美術関係者をまきこんでの出版活動や卒論指導など盛りだくさんに構想というか妄想中です(笑)。立地しだいで年間入場者10万人以上もじゅうぶん可能と、社内で豪語しています。巨大なるコロンブスの卵をたてよう、と。また、美術館名にははっきりと「現代」という言葉もいれ、そこでいっそう本格的に現代美術に取り組む予定です。
 「画廊の社会的存在意義」ということを老舗が発揮するには、それくらいはせねばならないでしょう。そうでなければ、代を継承していく意味はうすくなってしまうと思います。一代では築けぬ社会的存在となっているはずですから。社会にむかって、より美術の世界を画廊らしくアピールしていかねばならない。老舗画廊のめざすかたちにもいろいろあるでしょうが、私どもの場合は地方の画廊として、愛知という地域社会によりしっかりと根ざした上で、そこで培ったものを全国へ、世界へと展開していこうとするものです。

 

五、最後に、画廊業の喜び、醍醐味について教えてください。


 とくに現代美術となると、時代に先がける喜びというのは、画廊にとって格別ではないでしょうか。まだ世評を得られていない作家の作品にコレクターらがそれなりのおカネを投じるというのは、ある意味で美術界における最高のパフォーマンスではないでしょうか。どんな資産家のコレクターにしても、美術品の購入には口頭で表わされる共感を少なからず越える場合が多いでしょう。画廊が自身の眼力やもてる資力をつくしてそこに介在する緊張感というのは、他の業界にはない種類のものだと思います。そういえば以前そんな話をすると、株の世界と似ていると言うひとがいました。私は株の売買というものをほとんどしたことのない人間ですが、だいぶ違うのでは?
社員によく言うのですが、私のことを絵しか興味のない人間というふうに見てばかりでは困る、よく見てごらん、と。ビジネスという緊張感のなかにも、というか、だからこそ美術品を前にしてコレクターらと、きれいごとではなく本当に共感しあえることこそ画商の醍醐味です。ましてそれがまだ実力どおりに市場が追いついていないと思われる作家・作品であれば、なおさらでしょう。究極的には、作品というモノではなく、第三者と美の価値観をともにして喜びあうこと。すぐれた美術品の売買によって人間関係が深まったり、広がったり。ひとを識るということが、いちばん楽しいのです。先に申し上げた20年ほど前からの全国美術館行脚のお蔭様で、私ごときにご指導くださる美術館関係者と数多くのご縁ができました。私にとって何ものにもかえがたい大きな財産です。父や母にしても、もし本当に画廊が倒産しそうになったら、巨匠たちやお客様たちがいくらでも作品を提供してくれたり、買ってくれたりしてくださったことでしょう。その2、3歩手前の事態はいくらもありましたが、父や母はそのお蔭様で落ちついた日常を送っていました。そんな人間関係に恵まれました。また、作家やお客様それぞれご遺族ら代をつないでのご厚誼というのは、それはまた何ともいえぬ喜びです。人生は修業ですが、画廊という場は私にとって最高の修業をさせてくれるところだと思っています。


『REAR』No.30(2013年)から転載

名古屋画廊創業70周年を迎えて想う 笠井 誠一(画家)

 
 名古屋画廊が創業70年を迎えると言う。画廊に関わる人達の世代も変わり、いつの間にか古顔になってしまった。若い頃からの自分の思いを辿りながら話をすすめたい。
 留学2年で勉強が一段落した。個展やサロンへの出品で仲間もでき、フランス滞在を続けて独り立ちしたい思いが膨らんだ。その為に画廊を訪ね歩いていた時期があった。
 長年日本を留守にしていたので、その空白を埋めるのには時間が掛った。
帰国した翌1967年には愛知芸大の講師として長久手の公舎に住み日本での生活が始まる。全く馴染みのない土地だったが、近くの瀬戸の丘陵や三河湾の風景が珍しくよく取材に出かけていた。山地を切り開いて建てた新設の大学には、教員と学生が一体になった学園創りの熱い空気が流れていた。
 斯うした環境の中で風景や人物の主題も試みながら、ゆっくりと日本での仕事や発表を考えていた。
 名古屋画廊を知ったのは、その頃個展を開いていた大久保泰(独立美術協会会員)を訪れた時で、画廊の雰囲気が好いのが印象に残った。その後恩師の伊藤廉の紹介で中山一男社長と出会い、1968年から私の個展が開催されることになる。
 中山さんは画廊の雰囲気通りの人だった。商いよりも愛好家と作家のよい縁結びを第一に考え、それ以上に美術を愛し作品の扱いも丁寧だった。中山さんをとし子夫人が支える夫妻の和やかな空気にひかれて、大勢の人達が集まっていた。
 横井礼以先生、鬼頭鍋三郎先生、中野安次郎先生達にも時々お会いし、敬愛する先輩の辻親造さん、浅野弥衛さん達も知った。愛好家では木村定三さんの「自分以上の人を相手に仕事をしないと絵は伸びない」と云う言葉が何時までも心に残る。また世代の近い常川晴久氏は酒が強く太刀打ち出来る人は少なかった。度々一緒に栄や今池で飲み歩いていた。今は横井清司さんの他は皆鬼籍に入ってしまった。
 経済成長の波に乗って美術市場も躍進する。1960年代後半、画廊には伊藤廉を中心に、東京から牛島憲之、糸園和三郎、中谷泰達が「綾(りょう)杉会(さんかい)」として集まり、70年代に入ると、新進の赤堀尚、紺野修司、進藤蕃、中村清治、橋本博英、星守雄と私による「名翔会」をたちあげる等、新たな展開が始まる。風媒社の稲垣喜代志氏は既に橋本君から紹介されており、それに小島哲爾夫妻、田野勲氏、小林一三氏達が加わり画廊に集る愛好家の世代も変わる。
 此の頃、中山社長は最も意欲的に働いていたが、その後の発展を見ずに1983年に亡くなられた。残された事業を受けついで、副社長の真一君を社長のとし子さんが支え、10年の歳月が過ぎる。
 1992年に創業50周年を迎える頃は経営も安定し、松下春雄展、生誕100年大沢鉦一郎展、山田睦三郎展、大澤海蔵展、宮脇晴展を次々と企画し、地域出身の物故作家に光を当てる等事業を広げている。
 2002年の創業60周年記念としての催しは、画廊経営の基礎が定まり新しい時代に向けての進展を示していた。2年前から社長は真一君の代になっていた。名古屋画廊の看板を背負って全国の美術館や展覧会の集りにはよく顔を出し、様々な分野の人脈を築いている。
 物故作家の展覧会や地元出身作家の応援に止まらず、海外作家の紹介まで企画の幅を持ち、名古屋画廊の活動は全国的に注目を集めている。また真一君は学芸員の資格を持ち、美術の見識も深く、論も立つし、文も立つので若い世代の画商の間で信奉者も少なくない。
 中山真一君が名古屋画廊の新しい時代を創るのに疑いを持たない。質の高い仕事を希って止まない。
 

心を結ぶ絆(きずな) 稲垣喜代志(風媒社・社主)

 
 私は現・刈谷市(もとは碧海郡依佐美村)に生まれ、昭和15年に小学校入学。翌年は皇紀2600年ということで、校名も「国民学校」と改められ、同年12月8日には日本は米・英両国に対して宣戦布告、同日払暁、米領ホノルルの真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。
 やがて国を挙げての戦時体制へと入っていった。「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「ほしがりません、勝つまでは」といった標語を印刷したポスターが学校の中や村のあちこちの家の壁に貼りめぐらされ、校庭も耕され藷畑と防空壕に変わっていった。
 新聞やラジオで報道される大本営発表のニュースはつねに「わが軍の大勝利、戦果絶大なり」ばかりであった。“神国日本”を信じきっていた“小国民”の一員として天皇陛下の御為に命を捧げようと、私もいっぱしの軍国少年であった。
 18年には学徒動員が行われ、私たちの学校からも先輩が少年航空兵として“歓呼の声”に送られて従軍のために旅立って行った。
私は絵を描くのが好きだった。だが、静物画や風景画は学校では一度も描かせてもらえなかった。歌も「小学唱歌」などはほとんど知らない。世はまさに戦時色一色に塗りつぶされ、竹槍で敵兵を突き刺す軍事教練などを毎日やらされた。
図画の時間には日本軍の戦車や飛行隊が華々しく戦うありさまや、アメリカの軍艦に日本の特攻機が魚雷を積んだまま突っ込んで体当たりし、敵艦が巨大な水柱を立てて沈んでいくさまを描いたのを覚えている。
そんな殺伐とした日々の中で6年生(昭和20年)のある日、当時校長だった伊豆原昇平先生がこんな話をされた。
「いま、私の住んでいる知立に油絵の大家で、かつて東京美術学校(現・東京藝術大学)の校長をしておられた和田英作先生が疎開してこられて住んでいらっしゃる。君たちの中で先生の絵をぜひ見たいという生徒がいたら、私が先生にお願いして拝見させていただくよう頼んであげよう」
私は油絵を雑誌などの印刷物で見たことはあったが、実物を直接見るという機会はそれまでまったくなかった。私は「ぜひ!」と先生にお願いをした。伊豆原先生は知立という昔の宿場町のほぼ中央に住んでおられ、毎日、自転車で依佐美村の半城土というところにあった半高国民学校まで約6キロの道を通勤しておられた。
私も子どもではあったが、もう大人用の自転車に乗ることができたので、休みの日に先生の案内で知立の町の和田先生の絵が飾られている場所まで出かけて行った。一人で行ったのか、他の同級生も行ったのか、今では記憶も定かではない。しかし、旧東海道の松並木や静かな田園風景を描いた本物の油絵を前にして私は感動した。さして広くない部屋に数枚の絵が架けられていたが、それらの絵は“あるべくしてある”という自然の姿で私のすべてを吸い込んでいくような不思議な力を持っていた。それまで学校の図画の時間に戦争の絵ばかりを描いていた私は、このような時代に周囲の自然と向き合い、対話し、静謐ともいえる世界を描写される人が目の前に“居る”ということに驚きさえ感じたのだった。
これが私の初の洋画体験であった。私は和田英作先生と伊豆原昇平先生に心から感謝した。
 
 それから約20数年後、縁あって名古屋画廊に出入りするようになって、びっくりしたのは、その和田英作先生と中山一男御夫妻が、たんなる作家と画商という垣根をこえて親しいおつき合いをしておられたということを知ったからである。そういった話をうかがったり、とし子会長の「和田英作画伯の思い出」なる文を拝見したりするたびに、たちまち、あの少年時代の光景が瞼に浮かび、万感胸に迫る思いに駆られるのである。
 
 さて、私と名古屋画廊を結んでくれたのは学生時代からの親友・橋本博英君である。彼とは時々、東京の高円寺の赤のれんで安酒を酌み交わしながら深夜まで議論をするのが常であった。彼は正統派で相当ねちっこかったが、私も負けてはいなかった。昭和38年、それまで勤めていた東京の新聞社をやめ私が名古屋で出版の仕事を始めてからは直接会う機会も少なくなったが、名古屋工業大学の教授になっておられた彼の父君(橋本規明氏=河川工学の権威)や母君の病気見舞いに来名する時には必ずといってよいほど、一献酌み交わした。また、名古屋画廊での恩師・伊藤廉先生や先輩・友人の個展の折などにも来廊したし、昭和49年から始まった名翔会展では毎回顔を合わせることになった。
橋本君は平成12年、ガンで急逝したが、まっすぐな生き方を貫いた人であった。彼は自著『私の絵画讃歌』の中で「地位でも名声でもない。まず人格である。描くことによって人格を磨き、その人格が絵を磨くのだ」と言い切っている。そして、画壇の寵児となることを潔(いさぎよ)しとせず、あえて孤高の道を歩みつづけた金山平三画伯に対して終生畏敬の念を持ちつづけた。
橋本君は中山さんのことを「あの人は絵を愛してたね。絵が好きで好きでたまらない人だよ。絵を見る目も結構厳しかった。絵のことを話しているとつい時間が過ぎるのも忘れている。いい絵を見ているとその作家のすべてに惚れ込んでしまうというようなところがあった。そして、彼の励ましが若い作家のぼくたちにとってどんなに嬉しくて、心の支えになったことか」と語ってくれたことがある。
私たちが画廊を訪れたとき、いつも温かい、すがすがしい空気が部屋いっぱいに流れているのを感じる。
この『70年史』を読んでいて随所で感じられるのであるが、中山一男氏がつくり上げて来られた名古屋画廊の“伝統”というのは、仕事を通して作家たちと心と心がふれあうような交流の中で築かれた何ものにもかえがたい「信頼」という絆(きずな)であったように思う。
時代はかわり、今は中山真一君の時代になったが、画廊の姿勢はまったく変わっていない。彼はクソ真面目である。嘘は言えない。一本気を絵に描いたような働き者である。
こんな画商がいまどき他のどこにいるだろうか。一昨年の春から愛知県内の各地で始めた「移動美術展」(無料)はまったく新しい試みだ。「われらが郷土から、こんなにすごい画家たちが出ているんだよ」ということを地元の人に知ってもらいたいとのことであるが、こういった営みこそが、美術を愛する心を培う大切な仕事なのではないか。
画廊で扱う作品も現代美術や陶芸作品も含め、少しずつ変わってきた。そうした新しい試みがさらに新しい伝統をつくっていくのだと思う。ただ領域を拡げるというのではなく、そこには中山真一流の哲学がこめられているようである。

 

名古屋画廊創業70周年に寄せて 久田 修(文芸同人誌『海』同人)

 
 私が初めて名古屋画廊を訪れたのは、今から30年ほど前、当時勤めていた東海銀行の御園支店に転勤となり、日々仕事に苦労していた頃である。転勤直後、支店が古いビルから、新築のATビルに引越し、そのロビーに適しい大きな絵を名古屋画廊の故・中山一男社長が貸与してくれていた。丁度その頃の展示の中に、出岡実先生の《パンジー(三色菫)》があり、当時絵はほとんど判らないながら、その香り高い詩情ただよう小品にひきつけられ、ながめていると、絵の好きな上司に、「欲しいなら、社長に交渉してやるよ」と言われた。そして、格安の値で頒けて頂いた。自分でお金を出し、自分の好みで私が求めた美術コレクションの第一号である。人の話をじっくり聴き、うなずきながら、その間両手を前にきちんと組み合わせて、そして最後にご自分の意見をくどくどとでなく、必要にして十分な応答でして下さる。中山社長のそういう態度は、私のような一介のサラリーマンに対しても終始変わることはなかった。
 
 名古屋画廊に出入りさせて頂いて、いろいろなことを教えられ、うれしかったことは数々あるが、そのうちの二つほどのエピソードを記したい。
 一つは笠井誠一先生の作品に出遇えたことである。
 怠惰な学生生活を送って来た私にとって、就職した銀行の勤務は耐え難く苦痛だった。毎日、夜9時、10時まで時間外勤務をし、独身寮に帰って寝るだけの生活を過ごしていた。隅々、私の配属された東京の支店には本の取次会社の取引があったので、「時間外手当分は本を買ってやろう」と、普通の本屋さんにはないような書物を毎日のように注文した。サルトルの『存在と無』もそういう風に手に入れ、読んだのである。当時この難解な哲学書をどこまで深く理解できたのか疑問だが、自分なりに、人間とは何か、社会とは何か、何よりその根本の“存在(L’être)”ということについて、了解できたと思った。現在の私のものの見方のベースを作ったと、今でも思っている。
 絵画についても、そういう意味で、ベン・ニコルソンやジョルジオ・モランディの静物画を好んできたが、名古屋画廊の作家の中で、父子二代にわたり、最も力を入れてきたうちの一人と思われる笠井誠一先生の作品群に触れさせて頂いたのは、何とも貴重な経験であった。“存在とは何か?”“ものがあるとはどういうことか”──対象の生命を再創造する先生の絵は猛々しくではなく、静かに語ってくれる。恐らく先生のパリ留学時に、伝統的/歴史的に厳然として続く、〈在り方〉を経験されたことも大きく影響していると思われる。存在しているものを正当化し、それを再構成すること、対象について持っているいっさいの知識を捨てて、無知の眼で対象を見ること。日常の生活の周りにある静物を描く先生の作品は、私の心にすんなり快く入りこみ、観終わった後、日々雑然たることがあろうとも、“本来の自分自身に深く還っている自分”を見出し快い時間が流れている喜びを抱いて帰ることができるのである。
 知識を深めたり情報を広げたりすることより、認識を深め、了解することが、私の読書の眼目である。詩や哲学書はもちろん、散文や小説、評論を読むのもそのためである。笠井先生は、そういう私の生き方を深めてくれる数少ない作家の一人である。
 
 もう一つは、故浅野弥衛先生にまつわるエピソードである。
 抽象絵画など全くと言っていいほど判らないながら、そのお人柄にひかれ浅野弥衛先生の鈴鹿のアトリエを訪れるようになり、当時同人になっていた文芸誌『海』に連載した評伝を、後の浅野先生の創作に大きな影響を与えた『荒地』の詩人・野田理一との若き日の交流にテーマをしぼってまとめ、はからずも私は大きな賞を受賞した。
 そんなこともあって東海銀行ニューヨーク支店の新しい事務所には、妻が絵のコーディネーター役となり、浅野先生の1960年代の作品を3点ほど、名古屋画廊から入れさせてもらった。浅野先生が60年代から70年代にかけ12回ほど名古屋画廊で個展をした時の収集作品である。ニューヨーク支店を訪れて浅野先生の抽象作品に感動した何人もの海外のお客様から「アーティストYAEとは誰か」と尋ねられることがあったそうだ。
 また、あの名古屋画廊の燭台マークを名古屋の市章である○八、末広がりの八の意味をこめ、考案されたのも浅野先生であったとのこと。
 現・真一社長は、これだけの秀れて個性的な作家の回顧展が、なかなか地元で行なわれることがなかったことに深い憤りを覚えておられたが、ようやく三重県立美術館で開催された時には、先生は病いに臥しており、会場に出掛けることもなく、展覧会終了後まもなく息を引き取られた。2007年秋、名古屋画廊が「没後10年浅野弥衛展-1960年から70年へ-」と題し、画廊コレクションを中心に回顧展を催されたことは記憶に新しい。内容の充実した意義深い企画展であった。
 名古屋画廊の親子二代にわたる功績について、思いつくままに挙げてみよう。
○ 伝統の後継・本流作家の育成。故鬼頭鍋三郎、故伊藤廉、笠井誠一先生という日本洋画の本流作家を徐々に世代を引き継ぎながら、70年という永きにわたり伝統を守り、育成してきたこと。
○ 地元の重要作家であるにも拘らず、評価が少なかった作家達の展覧会など、再評価作業・顕彰作業に力を入れ、そうした作家達の作品集を作成してきたこと。時間、コスト、努力を要する活動を継続している。
○ Uncommon Art of 20th Centuryのシリーズ企画、Living With Contemporary Artのシリーズ企画。真一社長は、ニューヨークやパリへしばしば出掛けているが、そういった折に、欧米の美術界の動向、現代美術の動きを敏感に感じとり、伝統ある名古屋画廊に新しい風を入れた。1995年から始まった「マチスJAZZ展」を皮切りに、カンディンスキー、リシツキーといった新しい美術展の試み、また最近では、久野真展、清水九兵衞展など斬新な企画も続いている。
○ 地方会場での「移動美術展」の開催。これは父である故・一男社長が戦中に行なった「巡回慰問美術展」の精神を、息子の真一社長が受け継いだもので、閉塞感のある現状にこそ、秀れた絵画で人々の心を潤したい、と始められた。たいへん好評であると聞く。
 
 真一社長は、信念といい、志といい、作家、顧客に対する誠心誠意の態度といい、見事なまでにお父上のDNAを受けつがれ、首尾一貫した頑固さを持ちあわせている。「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」という聖書の言葉を座右の銘にしている真一社長には、この混迷する社会状況、いきづまり感のある経済状況にあろうとも、名古屋画廊に立ち寄れば、よき作家達の作品群を通じ、美の世界に私達の心を解いてくれる──そんなギャラリーを継続して頂きたい、と切に願わずにはいられない。

 
  
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