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株式会社名古屋画廊
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企画展開催スケジュール

10月14日(金)-10月22日(土)追悼 国島 征二 先生
《作品》1991年、パステル・紙、168.2×113.2cm
追悼 国島 征二 先生
SEIJI KUNISHIMA
-平衡点へ-
10月14日[金]-10月22日[土]’22
11:00a.m.-6:00p.m. 日・祝休廊
(土曜日 12:00p.m.-5:00p.m.)
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■国島征二-2つの画廊をディレクション
                  中山 真一            
 のちに桜画廊をひらく画材店主・藤田八栄子に、愛知県立旭丘高等学校美術科時代から食事や絵の具代などなにかと世話になったという現代美術作家・国島征二は、1937年(昭12)名古屋市に生まれ、26歳のとき同画廊での初個展をひらく。以来、アルミニウムやブロンズに石を組みあわせるなど、自然や都市空間を意識した抽象的な立体作品を制作。80年代に始まる「Suspended pool」連作など、みがいた黒御影石の上にブロンズで鋳ぬいた木の枝を置くという、国島なりの自然への感応や東西美学を融合した豊かな結晶となっていよう。
 国島は、70年代から米国ロサンゼルスにもアトリエをもち、名古屋と行き来した。彼地で作家たちの動向や画廊事情に刺激をうけ、ディレクター的な資質もみがかれていく。70年代なかばに桜画廊が高踏的な抽象モダニズムに扱い作家をしぼると、発表の場をうしなう作家が続出。すると国島は、自身は同画廊で発表をつづけながらも、2つの新しい画廊の展覧会企画などディレクションを請けおい、多くその受け皿とした。今となっては名古屋で70年代後半から80年代、桜画廊の時代につづく「ギャラリーUとASGがらん屋の時代」と称される、それぞれ76年(昭51)と81年(昭56)に開廊した現代美術の実験的なスペースである。
ギャラリーU(名古屋市)は、画廊主・梅田勝に頼るばかりでなく、階下で国島夫人が喫茶店を切り盛りして画廊をささえながら若手作家を主体に展覧。ASGがらん屋(同)は、画廊主・浦川瑩子が上階でやはり飲食店をいとなみ、東京や、ときに海外からも国島と交遊のある外国人作家をよんで展覧会をひらいた。作家たちの成長をあたたかく見守った国島は、のちに「既成を超える発表で名古屋の閉鎖性を打破しつつ全国に発信する場を、と考えた。若い作家は〝やんちゃ〟をやらないと」と回想している。  
時代は「もの派」などをへて制作材料が多様化し、インスタレーション(仮設芸術)も一般的となっていた。それにしてもASGがらん屋など、ときにギャラリー内に大量の土が盛られたり床が取りのぞかれての展示であったり。いったい最後はだれが責任をとるのだろうと案じてしまうような展覧も見られた。現代美術のギャラリーの多様なあり方が模索されているこんにち、作家に対する画廊主やディレクター役のおおらかさなど、まずこの2つの画廊のことが想起されてもよいかもしれない。
『中部美術縁起』より転載。

■略歴:1937年(昭12)12月5日、名古屋市生。63~91桜画廊個展(13回)。75・76第11・12回現代日本美術展。79Tanatopsis / Contemplations on Death/Sculpture Center(ロスアンジェルス)。80KATACHI:From and Spirit in Japanese Art(アルバカーキー美術館、米ニューメキシコ)。Japanese Sculpture/Sculpture Center(ニューヨーク)。87Curators ‘Choise (Long Beach美術館、カリフォルニア)。90Pacific Currents(マッケンサ―ラー文化センター、カリフォルニア)。2010針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展(堀美術館、名古屋)2022年(令4)3月7日、逝去(享年84歳)。


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