私が初めて名古屋画廊を訪れたのは、今から30年ほど前、当時勤めていた東海銀行の御園支店に転勤となり、日々仕事に苦労していた頃である。転勤直後、支店が古いビルから、新築のATビルに引越し、そのロビーに適しい大きな絵を名古屋画廊の故・中山一男社長が貸与してくれていた。丁度その頃の展示の中に、出岡実先生の《パンジー(三色菫)》があり、当時絵はほとんど判らないながら、その香り高い詩情ただよう小品にひきつけられ、ながめていると、絵の好きな上司に、「欲しいなら、社長に交渉してやるよ」と言われた。そして、格安の値で頒けて頂いた。自分でお金を出し、自分の好みで私が求めた美術コレクションの第一号である。人の話をじっくり聴き、うなずきながら、その間両手を前にきちんと組み合わせて、そして最後にご自分の意見をくどくどとでなく、必要にして十分な応答でして下さる。中山社長のそういう態度は、私のような一介のサラリーマンに対しても終始変わることはなかった。
名古屋画廊に出入りさせて頂いて、いろいろなことを教えられ、うれしかったことは数々あるが、そのうちの二つほどのエピソードを記したい。
一つは笠井誠一先生の作品に出遇えたことである。
怠惰な学生生活を送って来た私にとって、就職した銀行の勤務は耐え難く苦痛だった。毎日、夜9時、10時まで時間外勤務をし、独身寮に帰って寝るだけの生活を過ごしていた。隅々、私の配属された東京の支店には本の取次会社の取引があったので、「時間外手当分は本を買ってやろう」と、普通の本屋さんにはないような書物を毎日のように注文した。サルトルの『存在と無』もそういう風に手に入れ、読んだのである。当時この難解な哲学書をどこまで深く理解できたのか疑問だが、自分なりに、人間とは何か、社会とは何か、何よりその根本の“存在(L’être)”ということについて、了解できたと思った。現在の私のものの見方のベースを作ったと、今でも思っている。
絵画についても、そういう意味で、ベン・ニコルソンやジョルジオ・モランディの静物画を好んできたが、名古屋画廊の作家の中で、父子二代にわたり、最も力を入れてきたうちの一人と思われる笠井誠一先生の作品群に触れさせて頂いたのは、何とも貴重な経験であった。“存在とは何か?”“ものがあるとはどういうことか”──対象の生命を再創造する先生の絵は猛々しくではなく、静かに語ってくれる。恐らく先生のパリ留学時に、伝統的/歴史的に厳然として続く、〈在り方〉を経験されたことも大きく影響していると思われる。存在しているものを正当化し、それを再構成すること、対象について持っているいっさいの知識を捨てて、無知の眼で対象を見ること。日常の生活の周りにある静物を描く先生の作品は、私の心にすんなり快く入りこみ、観終わった後、日々雑然たることがあろうとも、“本来の自分自身に深く還っている自分”を見出し快い時間が流れている喜びを抱いて帰ることができるのである。
知識を深めたり情報を広げたりすることより、認識を深め、了解することが、私の読書の眼目である。詩や哲学書はもちろん、散文や小説、評論を読むのもそのためである。笠井先生は、そういう私の生き方を深めてくれる数少ない作家の一人である。
もう一つは、故浅野弥衛先生にまつわるエピソードである。
抽象絵画など全くと言っていいほど判らないながら、そのお人柄にひかれ浅野弥衛先生の鈴鹿のアトリエを訪れるようになり、当時同人になっていた文芸誌『海』に連載した評伝を、後の浅野先生の創作に大きな影響を与えた『荒地』の詩人・野田理一との若き日の交流にテーマをしぼってまとめ、はからずも私は大きな賞を受賞した。
そんなこともあって東海銀行ニューヨーク支店の新しい事務所には、妻が絵のコーディネーター役となり、浅野先生の1960年代の作品を3点ほど、名古屋画廊から入れさせてもらった。浅野先生が60年代から70年代にかけ12回ほど名古屋画廊で個展をした時の収集作品である。ニューヨーク支店を訪れて浅野先生の抽象作品に感動した何人もの海外のお客様から「アーティストYAEとは誰か」と尋ねられることがあったそうだ。
また、あの名古屋画廊の燭台マークを名古屋の市章である○八、末広がりの八の意味をこめ、考案されたのも浅野先生であったとのこと。
現・真一社長は、これだけの秀れて個性的な作家の回顧展が、なかなか地元で行なわれることがなかったことに深い憤りを覚えておられたが、ようやく三重県立美術館で開催された時には、先生は病いに臥しており、会場に出掛けることもなく、展覧会終了後まもなく息を引き取られた。2007年秋、名古屋画廊が「没後10年浅野弥衛展-1960年から70年へ-」と題し、画廊コレクションを中心に回顧展を催されたことは記憶に新しい。内容の充実した意義深い企画展であった。
名古屋画廊の親子二代にわたる功績について、思いつくままに挙げてみよう。
○ 伝統の後継・本流作家の育成。故鬼頭鍋三郎、故伊藤廉、笠井誠一先生という日本洋画の本流作家を徐々に世代を引き継ぎながら、70年という永きにわたり伝統を守り、育成してきたこと。
○ 地元の重要作家であるにも拘らず、評価が少なかった作家達の展覧会など、再評価作業・顕彰作業に力を入れ、そうした作家達の作品集を作成してきたこと。時間、コスト、努力を要する活動を継続している。
○ Uncommon Art of 20th Centuryのシリーズ企画、Living With Contemporary Artのシリーズ企画。真一社長は、ニューヨークやパリへしばしば出掛けているが、そういった折に、欧米の美術界の動向、現代美術の動きを敏感に感じとり、伝統ある名古屋画廊に新しい風を入れた。1995年から始まった「マチスJAZZ展」を皮切りに、カンディンスキー、リシツキーといった新しい美術展の試み、また最近では、久野真展、清水九兵衞展など斬新な企画も続いている。
○ 地方会場での「移動美術展」の開催。これは父である故・一男社長が戦中に行なった「巡回慰問美術展」の精神を、息子の真一社長が受け継いだもので、閉塞感のある現状にこそ、秀れた絵画で人々の心を潤したい、と始められた。たいへん好評であると聞く。
真一社長は、信念といい、志といい、作家、顧客に対する誠心誠意の態度といい、見事なまでにお父上のDNAを受けつがれ、首尾一貫した頑固さを持ちあわせている。「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」という聖書の言葉を座右の銘にしている真一社長には、この混迷する社会状況、いきづまり感のある経済状況にあろうとも、名古屋画廊に立ち寄れば、よき作家達の作品群を通じ、美の世界に私達の心を解いてくれる──そんなギャラリーを継続して頂きたい、と切に願わずにはいられない。
久田 修(文芸同人誌『海』同人)