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株式会社名古屋画廊
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愛知県名古屋市中区栄一丁目12番10号
TEL.052-211-1982
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名古屋画廊の70年

 

名古屋画廊の70年

名古屋画廊の70年
 
ごあいさつ
 

   2011年、お蔭様をもちまして私どもは創業して70年がたちました。戦中から戦後の草創期をどうにか切りぬけ、その後も細々ながら今までつないでくることができましたのも、ひとえに私どものことを親身に思ってくださる皆々様の、まさにお蔭様であると心より深く感謝を申し上げる次第でございます。本記念誌では、70年間の展覧会を列記した上で、主な出品作品の小図版に新聞の展評等を転載いたしました。このなかから皆様それぞれにさまざまおくみとり頂けましたなら、私どもとして誠に幸甚でございます。なお、編纂にご尽力賜わりました多くの方々に厚く御礼を申し上げます。今後とも多少なりとも皆々様のお役に立てますよう精一杯させて頂きますので、どうかご指導ご鞭撻のほど何卒よろしくお願い申し上げます。本当に有難うございました。

中山 とし子

中山 真 一

 
名古屋画廊創業70周年を迎えて想う
 
 名古屋画廊が創業70年を迎えると言う。画廊に関わる人達の世代も変わり、いつの間にか古顔になってしまった。若い頃からの自分の思いを辿りながら話をすすめたい。
 留学2年で勉強が一段落した。個展やサロンへの出品で仲間もでき、フランス滞在を続けて独り立ちしたい思いが膨らんだ。その為に画廊を訪ね歩いていた時期があった。
 長年日本を留守にしていたので、その空白を埋めるのには時間が掛った。
帰国した翌1967年には愛知芸大の講師として長久手の公舎に住み日本での生活が始まる。全く馴染みのない土地だったが、近くの瀬戸の丘陵や三河湾の風景が珍しくよく取材に出かけていた。山地を切り開いて建てた新設の大学には、教員と学生が一体になった学園創りの熱い空気が流れていた。
 斯うした環境の中で風景や人物の主題も試みながら、ゆっくりと日本での仕事や発表を考えていた。
 名古屋画廊を知ったのは、その頃個展を開いていた大久保泰(独立美術協会会員)を訪れた時で、画廊の雰囲気が好いのが印象に残った。その後恩師の伊藤廉の紹介で中山一男社長と出会い、1968年から私の個展が開催されることになる。
 中山さんは画廊の雰囲気通りの人だった。商いよりも愛好家と作家のよい縁結びを第一に考え、それ以上に美術を愛し作品の扱いも丁寧だった。中山さんをとし子夫人が支える夫妻の和やかな空気にひかれて、大勢の人達が集まっていた。
 横井礼以先生、鬼頭鍋三郎先生、中野安次郎先生達にも時々お会いし、敬愛する先輩の辻親造さん、浅野弥衛さん達も知った。愛好家では木村定三さんの「自分以上の人を相手に仕事をしないと絵は伸びない」と云う言葉が何時までも心に残る。また世代の近い常川晴久氏は酒が強く太刀打ち出来る人は少なかった。度々一緒に栄や今池で飲み歩いていた。今は横井清司さんの他は皆鬼籍に入ってしまった。
 経済成長の波に乗って美術市場も躍進する。1960年代後半、画廊には伊藤廉を中心に、東京から牛島憲之、糸園和三郎、中谷泰達が「綾(りょう)杉会(さんかい)」として集まり、70年代に入ると、新進の赤堀尚、紺野修司、進藤蕃、中村清治、橋本博英、星守雄と私による「名翔会」をたちあげる等、新たな展開が始まる。風媒社の稲垣喜代志氏は既に橋本君から紹介されており、それに小島哲爾夫妻、田野勲氏、小林一三氏達が加わり画廊に集る愛好家の世代も変わる。
 此の頃、中山社長は最も意欲的に働いていたが、その後の発展を見ずに1983年に亡くなられた。残された事業を受けついで、副社長の真一君を社長のとし子さんが支え、10年の歳月が過ぎる。
 1992年に創業50周年を迎える頃は経営も安定し、松下春雄展、生誕100年大沢鉦一郎展、山田睦三郎展、大澤海蔵展、宮脇晴展を次々と企画し、地域出身の物故作家に光を当てる等事業を広げている。
 2002年の創業60周年記念としての催しは、画廊経営の基礎が定まり新しい時代に向けての進展を示していた。2年前から社長は真一君の代になっていた。名古屋画廊の看板を背負って全国の美術館や展覧会の集りにはよく顔を出し、様々な分野の人脈を築いている。
 物故作家の展覧会や地元出身作家の応援に止まらず、海外作家の紹介まで企画の幅を持ち、名古屋画廊の活動は全国的に注目を集めている。また真一君は学芸員の資格を持ち、美術の見識も深く、論も立つし、文も立つので若い世代の画商の間で信奉者も少なくない。
 中山真一君が名古屋画廊の新しい時代を創るのに疑いを持たない。質の高い仕事を希って止まない。
笠井 誠一(画家)
 
心を結ぶ絆(きずな)
 
 私は現・刈谷市(もとは碧海郡依佐美村)に生まれ、昭和15年に小学校入学。翌年は皇紀2600年ということで、校名も「国民学校」と改められ、同年12月8日には日本は米・英両国に対して宣戦布告、同日払暁、米領ホノルルの真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。
 やがて国を挙げての戦時体制へと入っていった。「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「ほしがりません、勝つまでは」といった標語を印刷したポスターが学校の中や村のあちこちの家の壁に貼りめぐらされ、校庭も耕され藷畑と防空壕に変わっていった。
 新聞やラジオで報道される大本営発表のニュースはつねに「わが軍の大勝利、戦果絶大なり」ばかりであった。“神国日本”を信じきっていた“小国民”の一員として天皇陛下の御為に命を捧げようと、私もいっぱしの軍国少年であった。
 18年には学徒動員が行われ、私たちの学校からも先輩が少年航空兵として“歓呼の声”に送られて従軍のために旅立って行った。
私は絵を描くのが好きだった。だが、静物画や風景画は学校では一度も描かせてもらえなかった。歌も「小学唱歌」などはほとんど知らない。世はまさに戦時色一色に塗りつぶされ、竹槍で敵兵を突き刺す軍事教練などを毎日やらされた。
図画の時間には日本軍の戦車や飛行隊が華々しく戦うありさまや、アメリカの軍艦に日本の特攻機が魚雷を積んだまま突っ込んで体当たりし、敵艦が巨大な水柱を立てて沈んでいくさまを描いたのを覚えている。
そんな殺伐とした日々の中で6年生(昭和20年)のある日、当時校長だった伊豆原昇平先生がこんな話をされた。
「いま、私の住んでいる知立に油絵の大家で、かつて東京美術学校(現・東京藝術大学)の校長をしておられた和田英作先生が疎開してこられて住んでいらっしゃる。君たちの中で先生の絵をぜひ見たいという生徒がいたら、私が先生にお願いして拝見させていただくよう頼んであげよう」
私は油絵を雑誌などの印刷物で見たことはあったが、実物を直接見るという機会はそれまでまったくなかった。私は「ぜひ!」と先生にお願いをした。伊豆原先生は知立という昔の宿場町のほぼ中央に住んでおられ、毎日、自転車で依佐美村の半城土というところにあった半高国民学校まで約6キロの道を通勤しておられた。
私も子どもではあったが、もう大人用の自転車に乗ることができたので、休みの日に先生の案内で知立の町の和田先生の絵が飾られている場所まで出かけて行った。一人で行ったのか、他の同級生も行ったのか、今では記憶も定かではない。しかし、旧東海道の松並木や静かな田園風景を描いた本物の油絵を前にして私は感動した。さして広くない部屋に数枚の絵が架けられていたが、それらの絵は“あるべくしてある”という自然の姿で私のすべてを吸い込んでいくような不思議な力を持っていた。それまで学校の図画の時間に戦争の絵ばかりを描いていた私は、このような時代に周囲の自然と向き合い、対話し、静謐ともいえる世界を描写される人が目の前に“居る”ということに驚きさえ感じたのだった。
これが私の初の洋画体験であった。私は和田英作先生と伊豆原昇平先生に心から感謝した。
 
 それから約二十数年後、縁あって名古屋画廊に出入りするようになって、びっくりしたのは、その和田英作先生と中山一男御夫妻が、たんなる作家と画商という垣根をこえて親しいおつき合いをしておられたということを知ったからである。そういった話をうかがったり、とし子会長の「和田英作画伯の思い出」なる文を拝見したりするたびに、たちまち、あの少年時代の光景が瞼に浮かび、万感胸に迫る思いに駆られるのである。
 
 さて、私と名古屋画廊を結んでくれたのは学生時代からの親友・橋本博英君である。彼とは時々、東京の高円寺の赤のれんで安酒を酌み交わしながら深夜まで議論をするのが常であった。彼は正統派で相当ねちっこかったが、私も負けてはいなかった。昭和38年、それまで勤めていた東京の新聞社をやめ私が名古屋で出版の仕事を始めてからは直接会う機会も少なくなったが、名古屋工業大学の教授になっておられた彼の父君(橋本規明氏=河川工学の権威)や母君の病気見舞いに来名する時には必ずといってよいほど、一献酌み交わした。また、名古屋画廊での恩師・伊藤廉先生や先輩・友人の個展の折などにも来廊したし、昭和49年から始まった名翔会展では毎回顔を合わせることになった。
橋本君は平成12年、ガンで急逝したが、まっすぐな生き方を貫いた人であった。彼は自著『私の絵画讃歌』の中で「地位でも名声でもない。まず人格である。描くことによって人格を磨き、その人格が絵を磨くのだ」と言い切っている。そして、画壇の寵児となることを潔(いさぎよ)しとせず、あえて孤高の道を歩みつづけた金山平三画伯に対して終生畏敬の念を持ちつづけた。
橋本君は中山さんのことを「あの人は絵を愛してたね。絵が好きで好きでたまらない人だよ。絵を見る目も結構厳しかった。絵のことを話しているとつい時間が過ぎるのも忘れている。いい絵を見ているとその作家のすべてに惚れ込んでしまうというようなところがあった。そして、彼の励ましが若い作家のぼくたちにとってどんなに嬉しくて、心の支えになったことか」と語ってくれたことがある。
私たちが画廊を訪れたとき、いつも温かい、すがすがしい空気が部屋いっぱいに流れているのを感じる。
この『70年史』を読んでいて随所で感じられるのであるが、中山一男氏がつくり上げて来られた名古屋画廊の“伝統”というのは、仕事を通して作家たちと心と心がふれあうような交流の中で築かれた何ものにもかえがたい「信頼」という絆(きずな)であったように思う。
時代はかわり、今は中山真一君の時代になったが、画廊の姿勢はまったく変わっていない。彼はクソ真面目である。嘘は言えない。一本気を絵に描いたような働き者である。
こんな画商がいまどき他のどこにいるだろうか。一昨年の春から愛知県内の各地で始めた「移動美術展」(無料)はまったく新しい試みだ。「われらが郷土から、こんなにすごい画家たちが出ているんだよ」ということを地元の人に知ってもらいたいとのことであるが、こういった営みこそが、美術を愛する心を培う大切な仕事なのではないか。
画廊で扱う作品も現代美術や陶芸作品も含め、少しずつ変わってきた。そうした新しい試みがさらに新しい伝統をつくっていくのだと思う。ただ領域を拡げるというのではなく、そこには中山真一流の哲学がこめられているようである。
稲垣喜代志(風媒社・社主)
 
 
名古屋画廊創業70周年に寄せて
 
 私が初めて名古屋画廊を訪れたのは、今から30年ほど前、当時勤めていた東海銀行の御園支店に転勤となり、日々仕事に苦労していた頃である。転勤直後、支店が古いビルから、新築のATビルに引越し、そのロビーに適しい大きな絵を名古屋画廊の故・中山一男社長が貸与してくれていた。丁度その頃の展示の中に、出岡実先生の《パンジー(三色菫)》があり、当時絵はほとんど判らないながら、その香り高い詩情ただよう小品にひきつけられ、ながめていると、絵の好きな上司に、「欲しいなら、社長に交渉してやるよ」と言われた。そして、格安の値で頒けて頂いた。自分でお金を出し、自分の好みで私が求めた美術コレクションの第一号である。人の話をじっくり聴き、うなずきながら、その間両手を前にきちんと組み合わせて、そして最後にご自分の意見をくどくどとでなく、必要にして十分な応答でして下さる。中山社長のそういう態度は、私のような一介のサラリーマンに対しても終始変わることはなかった。
 
 名古屋画廊に出入りさせて頂いて、いろいろなことを教えられ、うれしかったことは数々あるが、そのうちの二つほどのエピソードを記したい。
 一つは笠井誠一先生の作品に出遇えたことである。
 怠惰な学生生活を送って来た私にとって、就職した銀行の勤務は耐え難く苦痛だった。毎日、夜9時、10時まで時間外勤務をし、独身寮に帰って寝るだけの生活を過ごしていた。隅々、私の配属された東京の支店には本の取次会社の取引があったので、「時間外手当分は本を買ってやろう」と、普通の本屋さんにはないような書物を毎日のように注文した。サルトルの『存在と無』もそういう風に手に入れ、読んだのである。当時この難解な哲学書をどこまで深く理解できたのか疑問だが、自分なりに、人間とは何か、社会とは何か、何よりその根本の“存在(L’être)”ということについて、了解できたと思った。現在の私のものの見方のベースを作ったと、今でも思っている。
 絵画についても、そういう意味で、ベン・ニコルソンやジョルジオ・モランディの静物画を好んできたが、名古屋画廊の作家の中で、父子二代にわたり、最も力を入れてきたうちの一人と思われる笠井誠一先生の作品群に触れさせて頂いたのは、何とも貴重な経験であった。“存在とは何か?”“ものがあるとはどういうことか”──対象の生命を再創造する先生の絵は猛々しくではなく、静かに語ってくれる。恐らく先生のパリ留学時に、伝統的/歴史的に厳然として続く、〈在り方〉を経験されたことも大きく影響していると思われる。存在しているものを正当化し、それを再構成すること、対象について持っているいっさいの知識を捨てて、無知の眼で対象を見ること。日常の生活の周りにある静物を描く先生の作品は、私の心にすんなり快く入りこみ、観終わった後、日々雑然たることがあろうとも、“本来の自分自身に深く還っている自分”を見出し快い時間が流れている喜びを抱いて帰ることができるのである。
 知識を深めたり情報を広げたりすることより、認識を深め、了解することが、私の読書の眼目である。詩や哲学書はもちろん、散文や小説、評論を読むのもそのためである。笠井先生は、そういう私の生き方を深めてくれる数少ない作家の一人である。
 
 もう一つは、故浅野弥衛先生にまつわるエピソードである。
 抽象絵画など全くと言っていいほど判らないながら、そのお人柄にひかれ浅野弥衛先生の鈴鹿のアトリエを訪れるようになり、当時同人になっていた文芸誌『海』に連載した評伝を、後の浅野先生の創作に大きな影響を与えた『荒地』の詩人・野田理一との若き日の交流にテーマをしぼってまとめ、はからずも私は大きな賞を受賞した。
 そんなこともあって東海銀行ニューヨーク支店の新しい事務所には、妻が絵のコーディネーター役となり、浅野先生の1960年代の作品を3点ほど、名古屋画廊から入れさせてもらった。浅野先生が60年代から70年代にかけ12回ほど名古屋画廊で個展をした時の収集作品である。ニューヨーク支店を訪れて浅野先生の抽象作品に感動した何人もの海外のお客様から「アーティストYAEとは誰か」と尋ねられることがあったそうだ。
 また、あの名古屋画廊の燭台マークを名古屋の市章である○八、末広がりの八の意味をこめ、考案されたのも浅野先生であったとのこと。
 現・真一社長は、これだけの秀れて個性的な作家の回顧展が、なかなか地元で行なわれることがなかったことに深い憤りを覚えておられたが、ようやく三重県立美術館で開催された時には、先生は病いに臥しており、会場に出掛けることもなく、展覧会終了後まもなく息を引き取られた。2007年秋、名古屋画廊が「没後10年浅野弥衛展-1960年から70年へ-」と題し、画廊コレクションを中心に回顧展を催されたことは記憶に新しい。内容の充実した意義深い企画展であった。
 名古屋画廊の親子二代にわたる功績について、思いつくままに挙げてみよう。
○ 伝統の後継・本流作家の育成。故鬼頭鍋三郎、故伊藤廉、笠井誠一先生という日本洋画の本流作家を徐々に世代を引き継ぎながら、70年という永きにわたり伝統を守り、育成してきたこと。
○ 地元の重要作家であるにも拘らず、評価が少なかった作家達の展覧会など、再評価作業・顕彰作業に力を入れ、そうした作家達の作品集を作成してきたこと。時間、コスト、努力を要する活動を継続している。
○ Uncommon Art of 20th Centuryのシリーズ企画、Living With Contemporary Artのシリーズ企画。真一社長は、ニューヨークやパリへしばしば出掛けているが、そういった折に、欧米の美術界の動向、現代美術の動きを敏感に感じとり、伝統ある名古屋画廊に新しい風を入れた。1995年から始まった「マチスJAZZ展」を皮切りに、カンディンスキー、リシツキーといった新しい美術展の試み、また最近では、久野真展、清水九兵衞展など斬新な企画も続いている。
○ 地方会場での「移動美術展」の開催。これは父である故・一男社長が戦中に行なった「巡回慰問美術展」の精神を、息子の真一社長が受け継いだもので、閉塞感のある現状にこそ、秀れた絵画で人々の心を潤したい、と始められた。たいへん好評であると聞く。
 
 真一社長は、信念といい、志といい、作家、顧客に対する誠心誠意の態度といい、見事なまでにお父上のDNAを受けつがれ、首尾一貫した頑固さを持ちあわせている。「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」という聖書の言葉を座右の銘にしている真一社長には、この混迷する社会状況、いきづまり感のある経済状況にあろうとも、名古屋画廊に立ち寄れば、よき作家達の作品群を通じ、美の世界に私達の心を解いてくれる──そんなギャラリーを継続して頂きたい、と切に願わずにはいられない。
久田 修(文芸同人誌『海』同人)
 
  
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